2018年6月24日日曜日

02_新しい人間ー2

エーリッヒ・フロム「生きるということ」紀伊國屋書店より

(13)いかなる成長も現実の構造で起こらなければ、健全でないと知っていること。さらに、生の属性(バイオフィラス)としての成長と、死せるものの属性(ネクロフィラス)の秩序との区別が出来ること。


(14)耐え難い環境からの逃避のための想像力ではなく、現実的可能性の予測と耐え難い環境を除く手段としての想像力を持つ。

(15)他人を欺かず、他人からも欺かれないこと。無邪気ではあるが、単純ではないこと。

(16)自分の知る自己だけでなく、自分の知らない自己をも知る努力をすること。


(17)人間は全ての生命と一体であり、その前提から、自然を征服し、搾取し、破壊するという目標を捨てる。自然を理解し、自然と調和することに努める。

(18)気ままではなく、自己実現としての自由。貪欲としてではなく、いつ何時でも成長と衰退、生と死の選択を迫られる、微妙な選択の上に保たれる構造としての自由を尊重する。

(19)悪と破壊は、成長の失敗の必然的結果であることを知ること。

(20)これら全ての資質の完成に至った人は、少数に過ぎないということを知っているが、目的に到達しようとする野心は持たない。そのような目的達成の野心であっても、野心は持つ形態であり、貪欲であることを知っているからである。

(21)どこまで到達できるかは考えず、成長する過程に幸福を見出すこと。出来る限りのことをして、充実して生きることは、自分に何が出来て何が出来ないか、という疑念を与えないほどの満足感をもたらすからである。

エーリッヒ・フロム「希望の革命」紀伊國屋書店より

資本主義とその倫理の発達過程において、カトリック=中世社会の基本的美徳であった同情(あるいは慈悲、隣人愛)が美徳でなくなるということは、注目すべき現象である

新しい倫理的規範は<進歩>である。そして進歩の基本的意味は経済的進歩であり、生産の成長であり、一層能率的な生産方法の創出である。

人間の性質の中で<進歩>に役立つものはすべて美徳であり、それを妨げるものは罪悪である。同情は<進歩>に役立つどころか、その障害となるという誤った考え方である。


19世紀における過酷な労働者の搾取にせよ、競争相手の撲滅にせよ、無用な製品の広告にせよ、いずれの場合にも同情は<進歩>の追求の妨げになる。それゆえ、同情はもはや美徳ではありえず、まったくの愚行と見なされるのである。

進歩の追及を 中心的倫理規範とすることによって、人々は非同情的、非人間的に振舞っている時でも<心安らかに>行動することができるのである

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