2018年4月18日水曜日

04_神のイメージ

神はさらに、正義・真理・愛という原理の象徴となった。神こそが真理であり、正義である。この段階において神は、人間であること、男であること、女であることをやめた。さまざま現象の背後にある統一原理の象徴となり、人間の内にある種子から育つ花を意味するものになった。

神はモーゼに「私はありつつある」ものだと告げる。「ありつつある」とは、神が有限ではなく、人間でも「存在」でもないことを意味する。いかなる像もつくってはならない、神の名を唱えてはならないという偶像崇拝の禁止は、神は、子どもを救いにくる父親のような存在ではあり得ない、という戒めなのである。この思想はさらに、

神に<肯定的属性を与えない>という原理にまで発達する。神は賢いとか強いとか、善いとかいうことは、やはり神が<人間的>であるということを暗示するからである。こうした一神教の考え方を突き詰めてゆくと、神は、<潜在的にありうるもの><名前を持たない唯一つのなにか><表現できない不可知>となる

成熟したイメージの神は、あらゆる現象世界の背後にある統一や、あらゆる存在の根拠を象徴するものであり、真実・愛・正義そのものである。しかし、アブラハムの段階の神は、父親として愛されることもあれば、恐れられることもあり、ときには罪を許すが、ときには怒りが優先することもある。この段階の神を信じるなら、


私は子どもである。私は、全知全能への自閉的願望から抜け出せない。私はまだ、人間としての限界や、自分が無知無力であるということを自覚するための洞察力を身につけていない

私は子どもみたいに言い張る。私を救い、見守り、罰する父親がいるはずだ。その父親は、私が従順であれば愛し、讃えればご機嫌になり、言うことを聞かないと怒る

あきらかにほとんどの人は、その人格の発達において、この幼児的な段階を脱していない。したがって、

ほとんどの人にとって、神を信仰することは、助けてくれる父親を信じるという子供っぽい幻想なのである

このような宗教概念は、何人かの人類の偉大な師たちや、ごく少数の人々によって克服されたにもかかわらず、いまだに宗教の主流をなしている。

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