2017年12月4日月曜日

12、我思う、故に我あり

私たちの世界は、人間の精神という細い糸にぶら下がっています。道を誤れば、どうなると思います?」➡ ヒストリーチャンネル<夢の賢者ユング>より

C・G・ユング著「タイプ論」みすず書房より☈

世界はそれ自体で存在するのではなく、「私の目に映るもの」としても存在している。いやそれどころか、私たちは本質において、主体に同化できない世界を判断するために有効に働く判断基準などというものを持っていないのである

もし主観的要因を見逃すならば、世紀の変わり目に醜い姿を見せた、あの虚ろで味気ない実証主義に陥り、同時に粗暴な感情や鈍感で尊大な暴力性の先駆形態である、知的傲慢にも陥ってしまう

主体は人間であり、認識作用には主体がある

もし「私は認識する」と言う者がなければ、そもそも認識などというものは存在しない。主体的認識がなければ世界は存在しない。今現在の客観的事実にだけ囚われていると、世界は硬直化し変革の可能性を奪われて滅びる。 これと同じことは、あらゆる心的機能についても当てはまる。すなわち心的機能には主体があり、これは客体と同じくらい不可欠である。

このため内向型の人は、客体がつねに決定的でなければならないということに納得がいかない。⇔ 逆に外向的な人は、主観的な立場が、客観的状況に優先しなければならないということに合点がいかない。

 外向型の人は内向型の人を、どうしても思い込みの強いエゴイストで断定的な人間であると仮定しがちである。内向型の人がこうした<外向的な偏見>をもたれるのは、彼が断定的な言い方で、他人の意見をはじめから締め出そうとしている、あるいは、断固として主観的判断を、あらゆる客観的事実の上に置くかのような印象を与えるからである。

このような偏見に対し、内向型の人はほとんど正しい反論ができない。というのは、自らの主観的判断や知覚に無意識的ではあるが、普遍妥当な生の法則とも呼べる前提が含まれていることに気づいていないからである。時流に流されるなら、彼は探求の目を外に向け、自らの意識の背後に何があるか探ろうとしなくなってしまう

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