2017年10月1日日曜日

2、内に潜む悪


 エーリッヒ・フロム 「悪について」紀伊国屋書店より
自分ではどうすることも出来ないという無力感の増大は、「戦争は人間のもつ破壊的傾向の結果であるが故に不可避である」。と主張する人の合理化に寄与し、新たな堕落と原罪説を受容する危険をはらんでいる。

精神分析者として長い臨床経験をもつ人なら、人間に内在する破壊力を軽視することは非常に困難だろう。分析者は重症患者の中に、この力が働くのを見て、その力を阻止し、それを建設的方向に向けることは、途方もなく難事だということを経験する。同じように、第一次世界大戦の初めから悪の暴発と破壊性を目撃してきた人なら、人間の破壊性の持つ力や強さを直視しないわけにはいかないだろう。

戦争とは政治・軍事・経済の指導者たちが、領土・天然資源・貿易上の利益を得るため、あるいは外敵によって自国の安全に加えられる真実あるいは架空の脅威を防ぐため、更には自国の名誉と国威を宣揚するために開戦決定する結果なのである。

この人たちは一般の人と異なるわけではない。利己的で、他人のために自己の利益を捨てるようなことはほとんどなくても、残忍でも邪悪でもない

日常生活ではおそらく害になるよりは善行をなすこういった人たちが、多数の人びとを支配し、最も破壊的な兵器を自由にし得る立場につくと、測り知れぬ害毒を引き起こすことが出来る

人類を破滅に導くかもしれない異常な権力をもった普通の人間は、悪鬼やサディストではない。しかし、人類にとってなによりも危険である

戦争をするためには武器が必要であるように、数百万の人びとに生命を賭け、また殺人者とならせるには、憎悪・憤怒・怖れ・破壊性の感情が必要である。

しかし、こういう感情は開戦の必要条件ではあるが、大砲や爆弾と同様に、それ自体は開戦の理由にはならない

核装備されたミサイルを発射する人は、兵士が銃を使ったときと同じような「殺人」の経験をすることはまずないだろう。だが、核兵器を発射する行為は意識的には命令を忠実に守るに過ぎなくとも、このような行為を可能にするには、破壊衝動でないにしても、

生命への根強い無関心がそのパーソナリティの深層にあるのではなかろうかという疑問が残る。

第一次世界大戦始まり、ヒトラーとスターリン、コヴェントリー(第二次世界大戦時爆撃により壊滅)と広島・長崎を経て、世界の滅亡を準備しつつある現在までの先進国の精神的破壊は、ふたたび悪に向かう人間の性向を強調する昔の状態を現出した。

この新たな強調は、人間に内在する悪の可能性を軽視しがちなことへの健全な解毒剤となった。

だが、余りにも多くの場合、時には彼らの立場を誤解したり歪曲することにより、人間によせる信頼を失っていない人々を嘲笑する結果になりがちである

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