2017年9月18日月曜日

11、自我と身体の境界

神になろうとすれば、嗜癖を招き、過度のストレスがもたらされる。支配の及ばない事柄をコントロールしようとすれば、身体は酷使され、緊張し、やがて文字通りの死に至る
➡ アン・ウィルソン・シェフ「嗜癖する社会、誠信書房」より

誰もが現実として受け入れている、もっともありふれた境界は体をとり囲む<皮膚の境界>である。皮膚の内側にあるものは全て<私>であり、皮膚の外側にあるものは全て<私>ではない。外側にあるものの中には、私の車、私の家、私の仕事など<私のもの>と呼べるものもあるが、<私>ではない。この皮膚の内側と外側という境界は最も根源的に受け入れられている、自己と非自己の境界の一つ。

通常のセラピーでは、外界に投影された影を自分のものとして自覚することにより、貧困な仮面(ペルソナ)から健全な自我へとアイデンティティを拡大することにより終了する。ケン・ウィルバーはこのことを、
⇒ <閉塞状態の狭い部屋から、一戸建てへ移る>ようなものと表現している。しかし、心のレベルは次の段階を用意している。それは、自我と身体の境界を消失させ、
⇒ <心地よい家から、さらに広い邸宅へ移る>ようなものだという。

<身体を取り戻す>というセラピーメソッドは数多いが、多くの人はこれに触れると、最初、

困惑と倦怠がいりまじった奇妙な表情をするという。これは、自我と肉体の境界が深く無意識の底に埋もれているからだ。心と身体の境界は不変でリアルなものと思い込んでいるために、

それを消すことはおろか、それに干渉できるということが不思議なのである

心を失っている人の数は少ないが、我々の大半は<とっくに身体を喪失している>私たちは騎手が馬に乗るように、<自分の身体の上に座っている>だから、必要に応じて自分の身体を責めたり誉めたりし、えさを与え、手入れをし、養うのである。

身体に対して何の相談もせずに、行動に駆り立てたかと思うと、今度はそれに逆らって抑圧する。自分の身体(馬)の行儀がいいと、それが当然だと感じ、手に負えなくなると鞭打って従属させようとする。

➽ 身体はわたしに付き従っているとしか思えない。もはや身体と一体で世界にアプローチはせず、身体に乗ってアプローチする。自分は上にいて身体は下にあり、下にあるものに関しては基本的に不安を抱いている。自分の意識はほとんど頭の意識だけでー 頭は私で、私が身体を所有している。身体は自己からの所有物、すなわち<自分のもの>ではあるが、<自分ではないもの>に格下げされている
➡ ケン・ウィルバー「無境界・自己成長のセラピー論」平河出版社より

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