2017年8月27日日曜日

18、知識の断片化

みな散り散りとなり
みなまとまりを失う
みな仮初めに役につくのみ
主君 臣下 父 息子 すべての結びつきは忘れられる
みな考えることといえば
不死鳥になること 不死鳥になれば
これでもなく あれでもなく 自分そのものになれると
➡ ジョン・ダン(1572~1631年)

二つの世界のあいだをさまよう
一つは死んだ世界
もう一つは力なく未だ生まれえぬ世界
➡ マシュー・アーノルド(1822~1888年)

袋小路から抜け出すビジョンの構築が困難な理由は、私たちの意識が近代なるものによって深く規定されていることにある。近代が「分離の文化」であり、世界が包括的な様式を持たない、散り散りで断片的なものと映る限り、どのように変えればよいのか知ることは不可能である。

(゚Д゚)ノ 毎日の新聞の紙面が、その現れともいうべき記事でにぎわっている。そしてこうしたものは全て、まったく同一の危機の異なった側面にすぎず、その危機は本質的に認識の危機である。
➡ フリッチョフ・カプラ(1939~、物理学者)

断片性の感覚は、現代の文化で最も尊重され、最も権威のある科学で顕著である。科学はかつての神学や哲学がそうであったような、現実の総体的解釈ではなく、互いにほとんど関連を持たない諸科学の集まりにすぎない。

(゚Д゚)ノ 科学探求は切り離された個別の「諸科学」へと分割されていった。個々別々の学科は、それぞれに特殊な様式を持っており、取り上げる問題も他の諸学科とは独立し、抽象化された形で議論を行うように定義されている。そのため初期の自然論の焦点であった「大自然の相互関連」についての一般的な問いは、専門的に細分化された学科的な問いに取って代わられた。換言すれば、   (゚Д゚)ノ 科学の実質とは構成諸科学で得られた結果の寄せ集めの総計にすぎない
➡ スティーヴン・トゥールミン(1922~2009年、哲学者)

(゚Д゚)ノ 我々の個々の観点や特殊な関心事について、それが何であるか何のためにあるのかユニークな点は何かといったことがよくわからない。それは事実として与えられたものであって、合意や妥当性の及ぶものではないのだ。私たちの

合理性は、主として目的と手段の関係に振り向けられており、種々の目的の間の序列については考慮の外に置かれてしまう。同様に、

この合理性はきっちりと区分けされた仕切りの中で発揮されるものであって、それぞれの領域の配分や定義や相互関係に口を挟むことはないのである
➡ ルイ・デュモン(1911~1998年、人類学者)

このような高等文化の展開は、教育に破壊的な影響を与えてきた。現代のマンモス大学は、情報や有用な技術が別々に盛り付けられた皿を選び取るカフェテリアのようなものになってしまっている。こうした傾向を逆転させようとする努力の一つが「コア・カリキュラム」をつくろうとする動きであるが、実質的コアの観念を持っていない諸科学間の闘争に終わることが少なくなかった。結局、こうした努力自体 

 私たちの文化の断片化を癒すものというよりは、その症状そのものといった有様である。

ロバート・N・ベラー、R・マドセン、S・M・ティプトン、W・M・サリヴァン、A・スウィドラー 共著 「心の習慣」アメリカ個人主義のゆくえ(みすず書房)より

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