2017年9月20日水曜日

1、自由という重荷

もし私が、私のために存在しているのではないとすれば、だれが私のために存在するのであろうか。もし私が、ただ私のためだけ存在するのであれば、私とはなにものであろうか。もしいまを尊ばないならば、いつというときがあろうか
➡ 「タルムード」第一編「ミシュナ」より

「自由からの逃走」エーリッヒ・フロム著・日高六郎訳、東京創元社より
*著者紹介― 1900年、ドイツのフランクフルトに生まれる。ハイデルベルグ、フランクフルトの大学で社会学、心理学を専攻し、1925年以後は精神分析学を社会現象に適用する新フロイト主義の立場に立ち、社会心理学に重要な位置を占めた。ナチに追われてアメリカに帰化し、メキシコ大学などの教授に歴任、1980年没。

■現代における自由の意味
現代の政治的発展が、近代文化のもっとも偉大な業績「個性と人格の独自性」にとって危険なものとなっているのをみて、私は大規模な研究の続行を中断し、現代の文化的社会的危機にたいして決定的な意味をもつ一つの側面、すなわち近代人にとっての自由の意味ということに集中しようと決心した。

なぜなら、全体主義がなぜ自由から逃避しようとするのかを理解することが、全体主義的な力を征服しようとする全ての行為の前提であるからである。
➡ エーリッヒ・フロム

社会の基礎的な実体は個人であり、個人の欲望と恐怖激情と理性善への傾向と悪への傾向が社会を形成している。そのため

社会過程を理解するためには、個人の心理過程がどのように形成されたかを理解する必要がある

 近代人は、個人に安定を与えると同時に彼を束縛していた、前個人的社会の絆からは自由になったが、

個人的自我の実現、すなわち個人の知的な、感情的な、感覚的な諸能力の表現という積極的な意味における自由は、まだ獲得していない

⇒ 自由は近代人に独立と合理性を与えたが、

⇒ 一方個人を孤独におとしいれ、そのため個人を不安で無力なものにした。

➡ この孤独は耐え難いものである。個人は自由の重荷から逃れて新しい依存と従属を求めるか

➡ あるいは人間の独自性と個性とに基づいた積極的自由の完全な実現に進むかの二者択一を迫られている。

2017年9月19日火曜日

12、哀れなロバ

➡ ケン・ウィルバー「無境界・自己成長のセラピー論」平河出版社より

皮膚の境界はあまりにも明白で現実的であるために、自己と非自己の境界はこれ以外にないと考えられているが、多くの人が無意識に設けている境界が他に存在するとケン・ウィルバーは言う。たとえば、

「あなたは自分が身体だと感じますかそれとも自分が身体を持っていると感じますか?」

と聞いたとすると、ほとんどの人が車や家や他のものと同じように、自分は身体を持っていると感じていると言うのである。こういった状況では、身体は私であるというより「私のもの」として、自己・非自己の境界線の外側に置かれてしまっているのである。

ある人は、この身体の状況を「哀れなロバ」と呼んだ。そして、ほとんどの人がこの哀れなロバの上に座って、身体を乗り回している感覚を持っていることは否定できないだろう。

この心身の間の境界線は誕生時には存在しなかった奇妙なものである。しかし、成長するにつれ身体に対して入り混じった複雑な感情を抱くようになる。

身体は一生を通じて快楽の源になるものである。エロティックな感覚から、ご馳走の微妙な味覚、日没の美しさを感じるのは、身体の諸感覚である。ところが、
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身体には不具になることへの恐れ、老いによる衰弱、ガンの苦しみなどの恐怖もすみついている

子供にとって身体は唯一の快楽の源である。だが、同時に身体は両親とのいさかいや苦痛の第一の源でもある。身体は全く訳のわからない理由で、両親をピリピリさせたり悩ませる廃棄物を生産し続けているように子供には思える。おねしょ、涎、鼻水- まったくなんて騒ぎなんだ!

そのため大人になるころには、ほとんどの人がこの「哀れなロバ」を壁の外(境界の外側=非自己の側)に置いてしまう。

心と身体の間に境界を設けて、前者にのみアイデンティティを持つ

そして自分は頭の中に住み、身体を監督し命令を与える。つまり、
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自分のアイデンティティを有機体全体ではなく「自我」と呼ばれる一局面に限定させて、それを自分だと思い込んでいるのである

生物学的には、この魂と身体、自我と肉体の分裂や溝にはいかなる根拠もないが、心理学的には疫病的な作用を及ぼすと考えられている。そして、この

心身二元論は、現代社会における基本的な原理になりシステムを支配しているのである。



2017年9月18日月曜日

11、自我と身体の境界

神になろうとすれば、嗜癖を招き、過度のストレスがもたらされる。支配の及ばない事柄をコントロールしようとすれば、身体は酷使され、緊張し、やがて文字通りの死に至る
➡ アン・ウィルソン・シェフ「嗜癖する社会、誠信書房」より

誰もが現実として受け入れている、もっともありふれた境界は体をとり囲む<皮膚の境界>である。皮膚の内側にあるものは全て<私>であり、皮膚の外側にあるものは全て<私>ではない。外側にあるものの中には、私の車、私の家、私の仕事など<私のもの>と呼べるものもあるが、<私>ではない。この皮膚の内側と外側という境界は最も根源的に受け入れられている、自己と非自己の境界の一つ。

通常のセラピーでは、外界に投影された影を自分のものとして自覚することにより、貧困な仮面(ペルソナ)から健全な自我へとアイデンティティを拡大することにより終了する。ケン・ウィルバーはこのことを、
⇒ <閉塞状態の狭い部屋から、一戸建てへ移る>ようなものと表現している。しかし、心のレベルは次の段階を用意している。それは、自我と身体の境界を消失させ、
⇒ <心地よい家から、さらに広い邸宅へ移る>ようなものだという。

<身体を取り戻す>というセラピーメソッドは数多いが、多くの人はこれに触れると、最初、

困惑と倦怠がいりまじった奇妙な表情をするという。これは、自我と肉体の境界が深く無意識の底に埋もれているからだ。心と身体の境界は不変でリアルなものと思い込んでいるために、

それを消すことはおろか、それに干渉できるということが不思議なのである

心を失っている人の数は少ないが、我々の大半は<とっくに身体を喪失している>私たちは騎手が馬に乗るように、<自分の身体の上に座っている>だから、必要に応じて自分の身体を責めたり誉めたりし、えさを与え、手入れをし、養うのである。

身体に対して何の相談もせずに、行動に駆り立てたかと思うと、今度はそれに逆らって抑圧する。自分の身体(馬)の行儀がいいと、それが当然だと感じ、手に負えなくなると鞭打って従属させようとする。

➽ 身体はわたしに付き従っているとしか思えない。もはや身体と一体で世界にアプローチはせず、身体に乗ってアプローチする。自分は上にいて身体は下にあり、下にあるものに関しては基本的に不安を抱いている。自分の意識はほとんど頭の意識だけでー 頭は私で、私が身体を所有している。身体は自己からの所有物、すなわち<自分のもの>ではあるが、<自分ではないもの>に格下げされている
➡ ケン・ウィルバー「無境界・自己成長のセラピー論」平河出版社より

2017年9月17日日曜日

10、自己について

君は物事を、「好きか嫌いか」で見るのではなくて、「正しいか正しくないか」で見るんだ。物事の本質を見るようにすれば、もっと心が深く落ち着くはずだよ
➡ パトリック・ジェーン「メンタリスト」

 ユングは著書「黄金の華の秘密」の注釈で、解決不可能と思われるほどの葛藤に直面した何人かの患者が、葛藤が些細に思えるような広い視野を持った《何か》に促されて意識が拡大し、解決不能の問題がその切迫性を失うという臨床体験を語っている

重要なことは、その問題自体に論理的な解決策が与えられたのではなく、新しい、より強い生命力の存在に触れ、意識が拡大することにより問題自体が消失してしまうということである。

ユングはこの《何か》を自己(セルフ)と呼び、意識と無意識、意識を支配する自我も含め、統括する存在と定義した。自己はフロイトが定義した、両親の懲罰が無意識に内在化した超自我とも、はっきりと意識化された良心とも異り、不随意に働き、人間を成長させ、よりよい人生へと導く⇨ 普遍妥当な生命の法則(ユング)
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嘘発見テストもまた、ユングの研究に由来している。言葉の連想テストは無意識の声を意識的な精神作用から分離して識別することに役立つようになった。

➽ これにより、人間の生理作用が自我から独立して働いていることが明らかになりました。つまり、たとえて言うなら、私が嘘発見テストを受けているとすると、

それを第二の人格が後ろで見ているんです。そして私がイエスだと認めたくない質問をされると、私は『いいえ』と答えますが、後ろにいる人格は認めてしまうんです。『イエス』ってね。

それが生理的反応というものであり、嘘がつけないんです。つまり人間の心の中には第二の存在、第二の精神的中心というべきものが在るということです。そしてそれは常に真実が好きなのです。
⇒ 夢の賢者ユングより
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人間には二つの面があると思うんです。心理的に見て表面の自分、チョロチョロしている自分と、奥深くに存在している、なかなか出てこない自分

このめったに顔を出さない、お宮の中に鎮まっておる自分が、いつまでもちゃんと厳然として、お不動さんみたいに目をいからせておらんと人間は間違うと思います。➡ 大辻桃源

2017年9月16日土曜日

9、セラピーの適材適所

自己洞察を追及する人は、心理学的、宗教的システムのあまりの多様さに直面し、何を信じればよいのか手探りの状態である。様々のセラピーに共通しているのは、どれもが何らかの形で意識に変化を起こそうとしている点である。だが共通しているのはそこまでである。

⇒ 禅仏教では自我を忘れ、超越し、看破するように言われる。ところが、

⇒ 精神分析では自我を強化、防衛、保護する方向が強調される。どちらが正しいのだろうか?これは素人にとってもセラピストにとっても切実な問題である。
➡ ケン・ウィルバー


サイコセラピーのレベル
ケン・ウィルバーによれば、各セラピーは何らかの意識の変化を起こそうという点では共通しているが、それぞれが志向するレベルが異なるために一見すると矛盾するように見えるのだという。

たとえば、精神分析と従来のサイコセラピーの大半は、意識と無意識の間の溝を癒し、「心全体」にふれることを目的とする。これらのセラピーの目的は、仮面と影を再統合し、強くて健全な自我、すなわち正確かつ受け入れ可能な自己イメージをつくりあげることである。

つまり、ペルソナ(仮面)として生きている人に、自分自身の自我を製図しなおす手助けをしているのである。

人間性セラピー
いわゆる人間性セラピーの大半はこれを超えており、自我と身体の間の溝を癒し、心と身体を再統合し、生命力全体を取り戻すことを目的としている。そのため精神分析と行動主義から派生した第三勢力である人間性の心理学(成長の心理学)は人間の潜在性開発ムーヴメントとも呼ばれる。

意識を思考や自我から解き放ち、全有機体へ拡大すると、生命全体の持つ膨大な可能性が使用可能なものになる。

「個」の超越
統一意識のレベルと有機体全体のレベルの間には、「トランスパーソナル(超個人的)なレベルが存在する。このレベルを対象としたセラピーのなかには、サイコシンセシス、ユング派分析、初歩的なヨーガ、超越瞑想のテクニックがある。ここでは「個」を超越することを目指し、目標としての統一意識が前提となっている

さらに深まると、禅仏教、ヒンドゥー教ヴェーダンタなどの学派があり、彼らは至高のアイデンティティ・統一意識のレベルを目指している

2017年9月15日金曜日

8、意識のスペクトル

平河出版社、ケン・ウィルバー著、吉福伸逸訳「無境界」自己成長のセラピー論より

■アイデンティティの諸レベル
アイデンティティ(自己統一性)の究極のレベルは自己超越のレベルで図の一番下、統一意識と呼ばれるもの。このレベルでは自己と非自己が「一つの調和した全体」であり、此処には自己と非自己を分ける境界がなく、意識が十分に拡大した状態。

ケンタウロスのレベルの始まりは、自我+身体と環境の間に境界が存在しすることで、意識の幅が狭まっている。

⇒ 自我のレベルでは当初、自我と身体の間に溝があり、さらに狭くなっている。

⇒ ペルソナのレベルは、自我がペルソナと影に分裂していて、更にさらに狭い。

■心の問題は「前線」で生まれる
「前線」は常に戦線となる可能性を秘めている。

境界線が領域を相対立する二つのグループに分けてしまうからである。
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そして心の問題はその人がどのレベルにいるかで異なる。たとえば、ケンタウロスのレベルにいる人は、環境を敵になる可能性を秘めたものと考える。

環境が異質で外的なものに見えた場合、生命と健康が脅かされるのではないかという不安が生ずるからである。

ところが自我のレベルにいる人は、自分の身体も同様に異質な領域に見えてくる。境界線が心と身体を分けるので、自分の身体が敵になってしまうのである。

さらに、仮面のレベルで問題は極めて顕著に現れる。自らの魂の諸局面の間に境界線を引いてしまったため、「ペルソナとしての自分」対「自分の影」という無意味な対立をつくりだしてしまったからである。

2017年9月14日木曜日

7、母性との対峙と克服

彼はよく言ってた『人生に暗示を見つけられなければ、人生に打たれる』って。それは本当よ、見つけられたはずのヒントを私は見つけられなかった。それで私は足を骨折しちゃったの。
➡「夢の賢者ユング」より

個性化は
⇒ 空腹・渇き・性・攻撃性・休養・幸福の追求などと同様、人間を動機づけるものの一つである。

ユングは、人間は集合的な魂の中にその根を持っていると考えたが、それにもかかわらず

⇒ そこから自らを分離し、個人が独自に魂を発達させることの重要性を説いた。

ユングは繰り返し、

⇒ 意識的になることの重要性と、人格の意識的な面と無意識的な面を統合することの必要を説いた。

旅の物語の一例として、母性の多様な面との対峙と克服があげられる。

⇒ 人間が始めにしなければならないのは、自然的・養育的・保守的・感情的な母性との決別である。

神話においては豊穣の女神デメーテルがこれをあらわす。デメーテルは普段は温厚で物静かだが、一旦怒ると人間を飢餓に陥れるという恐ろしい一面を持っている

⇒ これは、母との絆が強すぎると人間の発達が妨げられることを暗示している。

人間が決着をつけなければならない女神のもう一つの側面は、冥界の女王ペルセポネーのような誘惑的で野心的な一面である

野心には、人間を鼓舞し成長させる面と、⇒死や恐怖に追いやる面があり、母親の野心的なファンタジーは、

⇒ 精神的な成熟への希求をもたらす場合もあり、⇒うぬぼれた破壊的な野心を生み出す場合もある。

重要なことは、これら母性的元型が外部にあるのではなく、自らに生来具わったものであると自覚することである。つまり、

➡ これを自分自身の母親だけに見ることや、他の女性や社会システムに投影することが、何の役にも立たないということを知ることである。しかし、

➡ 自分の母親を罵ったり、社会に反抗して繰り返し非難することだけでは、何事も達成されないことがわかるまでには、なお大変な心理的努力が必要になるのである

しかも、これは個性化の過程で習得しなければならない巨大な教訓の一つにすぎないのである。
-結婚の深層、A・グッゲンビュール-クレイグ著/樋口和彦・武田典道訳、創元社より)